2011年12月13日

ここ重要!!

昨日、中学生補習授業時間帯に実施した受験生対象近代史授業のまとめです!!

~Wekipediaより~


貴族院は1946年まであった!!

伊藤博文は天皇を中心とした君主制を維持するためにも、天皇を補佐する世襲貴族(華族)の必要性があると認識していた。したがって、選挙による選出である衆議院とは対照的に、貴族院は世襲貴族をその中心に据えた。河野敏鎌は議員の地位を世襲とせず、華族による互選を主張したが、伊藤は「今世襲議員を貴族院より除くは取も直さず世襲貴族を廃するに同じ」と拒絶した。ただし、伯爵以下の貴族は数が多く、全員を議員にすることはできなかったため、同じ爵位の華族による互選となった。

貴族院関係法令の起草は金子堅太郎が担当した。金子は、当初、「元老院」と仮称していたが、伊藤博文は外国の元老院は選挙による選出だから今回の議院とは性質が異なると否定し、その結果「貴族院」に決定した。これは貴族中心の議院であることを積極的に表現し、皇室の藩屏として純粋な君主主義の立場を取り、民主主義に対抗する役割を期待されていた。また、当初の伊藤は政党内閣は事実上主権(国体)が天皇から政党に移るから認められないと考えていた(もっとも、伊藤は後に立憲政友会を結党)。そこで、貴族院は衆議院の政党勢力と対抗する存在と位置付けられた。

第二次世界大戦前にも婦人参政権の導入、労働組合の容認、帝国大学の増設などの法案が議会に提出され、衆議院では可決されているが、こうした「進歩的内容」の法案が貴族院を通ることは少なかった。

ただし、藩閥政権に対してもある程度の自立性を持ち、衆議院とその地位を競った結果、藩閥政権を幾度となく窮地に陥れてもいる。逆に、政権が政党に妥協した時には反政党の立場から政権と対立したこともある。1900年、伊藤の増税案に対して、貴族院は政友会の党利党略を理由にこれを否決した。手を焼いた伊藤は明治天皇に貴族院が法案成立に協力するよう求める勅語を出させ、従わせたことがある(貴族院はその性質上、勅語には従わざるを得ないのである)。したがって、保守的であるが単純に藩閥政権の手先ともいえなかった。

大正デモクラシーの時代には貴族院に対する改革・廃止論議が起こり、加藤高明内閣は若干の改正を行った。しかし普通選挙法成立との駆け引き材料になったこともあり、貴族院の基本的権限には手をつけられなかった。

第二次世界大戦後、日本国憲法の審議にも参加した。最末期には公職追放により貴族院でも多数の議員が追放されており、華族議員は補充されたものの、院の廃止を控えて影響力は低下し、審議では主に学識者を中心とした勅任議員が存在感を見せた。

自らの存在を否定することになる日本国憲法の審議では、下手に否決して天皇制廃止を連合国に持ち出される事態を恐れたため、次善の策として消極的な賛成論が大勢を占めた。天皇の権限を強める修正案も出され、GHQの根回しを済ませていたともいわれたが、修正案は否決された。

1947年(昭和22年)、大日本帝国憲法の廃止と日本国憲法の施行により、貴族院と華族制度は廃止された。貴族院の議場は新設された参議院が受け継いだ。貴族院出身者の多くは、憲法への賛成は占領下の便宜的な態度であるとして、のちに日本国憲法改憲論者となっていった。

伊藤博文は貴族院の議員だった!!

大日本帝国憲法下では、内閣総理大臣は国会議員でいる必要はなかった。現役の衆議院議員で首相となったのは原敬が初めてであり、大日本帝国憲法下の33人の首相の中では、濱口雄幸、犬養毅を併せた3人に留まっている。

一方で、現役の貴族院議員の首相は伊藤博文を始め、松方正義、大隈重信、桂太郎、西園寺公望、高橋是清、清浦奎吾、加藤高明、若槻禮次郎、近衛文麿、東久邇宮稔彦王、幣原喜重郎、吉田茂などかなりの数に上った。なお、日本国憲法下では、首相は現在のところすべて衆議院議員である。

ここ重要!!

国会議事堂の中央広間にはこの写真の3体の銅像があります。

誰の銅像かわかりますか?



答え

左から板垣退助、大隈重信、伊藤博文
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Posted by lenet at 12:28Comments(0)つぶやき・日記